◇ハゲは患部なのか?
ハゲの悪いところは頭皮に色々塗りったくるという事だ。
何が効くのかも分からない状況でやはり様々な情報に踊らされてしまう。
当然、僕もあらゆるものを塗りったくった。
育毛剤を始め、きゅうりの絞り汁や食器用洗剤、オリーブオイルなど
常人には理解し難いものを頭皮に注入した。

ハゲを気にしている時の人間は常人ではない。
胡散臭いという概念を持ち合わせていないのだ。

◆若ハゲは神が与える試練の中でも相当辛い部類。
もう5年ほど前だったであろうか。私はそこそこハゲていた。
温水さんのハゲ度が98点なら私は62点くらいのハゲだ。
しかし温水さんと私が決定的に違うのは
温水さんは当時40代で
僕が20代ということと、
温水さんはハゲキャラでギャラが発生しているが
僕は若ハゲでストレスが発生しているという大きな違いがあった。

◆始まりは何気ない仕事から。
「今日の現場は桧原村だって。」
会社に着いた僕に同僚のナカジマが気だるそうに言った。
「桧原村」とは東京の奥の奥。村全体が木々に覆われており、
鹿やリスなど野生動物が多く生息している。
言うならば「もののけ姫」の舞台の様な村である。

当時の私の仕事は様々な地域に赴き、インターネットの回線を
繋ぐのことだった。
東京ならばどこへでも行くが、たまにとんでもなく遠い所へ行かされる事がある。
僕が勤めていた会社は東京都武蔵野市。そこから桧原村までは車で三時間。
現場から帰っても事務仕事が残っているので現場が遠いと当然残業になってしまうのだ。ナカジマの溜息は残業決定の合図みたいなものだ。

「やっと着いたぁ…」
桧原村で仕事をするのは初めてではないが、いつ来ても「ここ東京だよな?」と呟いてしまう。ガソリンスタンドで給油している時、ナカジマが「現場に入る前に昼食取っちゃう?」と提案した。確かに時刻は正午になろうとしている。
「でもさ、どこで食べるよ?」
「あーさっきコンビニ通り過ぎちゃったからなぁ」
桧原村はコンビニが少ない。一軒コンビニを通過すると次のコンビニまでだいぶ車を走らせないといけないのだ。ナカジマは少し考えた後、「あ!そこの道まっすぐ行くと土産屋があるんだよ!おにぎりとかなら売ってるんじゃないかな。」と言った。桧原村は観光スポットでもあるので観光客用のお店がちらほらある。
僕はガソリンスタンドを出てナカジマの言う土産屋に向かった。

◆神秘は盲信を助長させる。
土産屋は年季のはいったロッジであった。
脇には川が流れ、辺りからは様々な鳥の鳴き声がする。
自分がハゲている事も忘れ清らかな気持ちになる。
店に入ると「お新香」やら「山菜」やら「自然水」などが目に付いた。
「おーい!こっちにおにぎりあったぞ~!」ナカジマの声がする。
僕がナカジマの元へ行こうとした時、ある商品に目が留まった。

馬油(ばーゆ)であった。

話題は逸れるがハゲの育毛情報収集は早い。それはハゲの進行がとても早いからではないかと僕は思う。勿論入ってくる情報のほとんどが眉唾ものだが、常に育毛に関しての
情報は脳内にインプットされているのだ。
馬油の情報も勿論心得ていた。馬油とは読んで字の如く
馬肉から抽出される油である。一説によると育毛に良いらしい。
このざっくり感の知識がハゲ産業を助長している事は言うまでもない。

値段を見てみると一瓶500円。タバコの箱ほどのサイズである。
これはお値打ち価格ではないか。育毛グッズで500円という値段は
まず考えられない値段である。しかも「桧原村直通馬油。完全手作業!」と
謳っており、なるほど瓶に貼っているラベルも印刷ではなく馬油とマジックで
書いてあるだけであった。
私は馬油を手に取りレジに向かった。
「あれ。おにぎりは?なにその瓶。うま…あぶら…?」
ナカジマは何故か明太子おにぎりを二個持ちながら
私の手にある馬油を一瞥した。

人はご神木や秘境といった神秘的なものを盲信してしまう傾向にある。
僕自身も桧原村という都会離れした地域で買う馬油に心奪われてしまった。
会社に帰り当然残業になったが馬油を手に入れた僕は嬉々として残業に臨んだ。
その姿を訝しげに見るナカジマを尻目に僕は馬油を頭に塗りったくる事ばかり
考えていた。
自宅に帰りシャワーを浴びて僕は鏡台に向かい合った。
上機嫌の最中というのは総じて間抜け面である。
しかしふっさふさの自分を想像してしまうと口角が下がらないのだ。
この姿を他人に見られなかったのが唯一の救いである。

馬油の匂いはグリスの香りがした。手触りは少しざらつきがあり、油である為当然
ベタベタしている。
中指と人差し指を魔貫光殺砲の様にして瓶に挿入する。
前髪の生え際や頭頂部に塗りたくった。

翌朝、枕が馬油でべっとべとになっていた。
そして頭皮が若干痒い。少し掻いてみるとヌチャっと心地悪い感触がした。
しかし気持ちは晴れやかだった。
僕はシャワーを浴び会社に向かった。

なんとなく髪にコシが出てきた様な気がする。
しかしハゲの「なんとなく」ほど信用の出来ないものはない。
そう。実際はなんら変わってなかったのだ。

◆毎週、秘境へ…
「あれ?髪の毛なんか艶々してるね。」
女性社員にそう言われた僕は馬油に心酔した。
今考えれば、夜に塗った馬油を朝のシャワーで落とし切れなかっただけだが
気を良くした僕は馬油を一週間ほどで使い切るようになった。

僕は週一回の貴重な休みを馬油を買いに行く事に費やした。
本心では纏め買いをしたかったのだが、手作業かなんだかしらないが
お一人様一瓶までという規約が存在していたのだ。
それでも意気揚々として桧原村まで馬油を求めに赴いた。
馬油だけ買うのが恥ずかしかったので燻製卵も一緒に買っていた。

◆先人の言葉
ある日事件が起きた。
会社で重要なミーティングがある時に僕は寝過ごしてしまったのだ。
携帯には着信が十数件。履歴を見なくても誰か分かるパターンだ。
僕は馬油がついたままの頭で会社に急行した。

「す、すみません!遅れました!」
上司が僕に文句を言おうとした瞬間、
「お前、その髪どうした?」と驚いた表情で言った。
考えてもみてほしい。頭髪は信じられないほど艶々で、おでこからは
ヌメヌメといた液体が流れ出ている男を。
会議室にいた一同、僕の返答を待っている。
静寂の中、僕は咄嗟に
「いや、焦ってて汗が…」
と言った。
局長が「いや、もうそれ汁だろ。」
という発言が皆の笑いを誘いその場の難を逃れた。

会議後、上司に呼ばれた。
「お前さ、もしかしてアデランスみたいなのやってんの?」
「いや…え…っと…」
「頭に何を塗ったて変わらないよ。男なら潔く短髪にしろ。」
その上司は完全にハゲていたので説得力がある。
「え?僕の髪、変わってないですかね…?」
僕は勇気を出して聞いてみた。上司は
「変わってないよ。」と一蹴した。

そう言われると週一回、桧原村まで行っていた自分が急に馬鹿らしくなってきたのだ。
僕は馬油の使用を止めたが、冷蔵庫に入っている大量の燻製卵を食べる日々は
しばらく続いた。